「ありがとう」と心に届いた猫の声
以前に弊ブログで紹介した、「動物のお坊さん」でおられる横田晴正氏がお書きになった「ありがとう。また逢えるよね。 ペットロス 心の相談室」を再読しております。
ペットロスは四苦八苦の全て?
仏教では、人生で避けることのできない苦しみがあると積極的に苦を認め、苦を受け容れていかに生きてゆくかを説いております。この避けることのできない苦のことを「四苦八苦」と言います。(中略)四苦とは、「生・老・病・死」のことであり、生ある者は時と共に老い、老いると共に病気にもなり、 病気が時と共に進めば、やがて死が訪れます。この四苦に加えて他にも四つ、人生では避けることのできない苦があることから八苦ともいわれ、四苦八苦となるのです。その他の四つの苦しみとは、「愛する者と別れる苦しみ」「嫌いな者と出逢う苦しみ」「求めても得られない苦しみ」「これらが他人ではなく自分のことである苦しみ」ということですから、ペットロスがいかに人生において苦しいかということは仏教の観点からも当てはまることになります。引用: 横田晴正著「ありがとう。また逢えるよね。 ペットロス 心の相談室 増補改訂版」第5刷第4章 ペットを喪ったあなたへ P.162
病院と自宅での看取りの後悔
これもあるなあと思ったトピックでした。
(中略)病気によっては治療に集中するあまり検査の数値を下げることが目的となってしまい、大切な命そのものの幸せを見過ごすことがあるもので、「こんなことならもっとあの子のことを考えてあげればよかった」と後悔することもしばしば見受けられます。
反対に家で亡くなれば最期を看取る機会は増しますが、苦しむ様子を見ることになり、眠るように腕の中で息を引き取るという理想とは異なり、辛い現実を目の当たりにすることもあるでしょう。(中略)
このようにして、病院で亡くなれば「家においてあげればよかった」と後悔し、家で亡くなれば「病院に行っていたらこんなことにはならなかったのではないか」とまた後悔するのです。(中略)
どのような選択肢を選んだとしても、愛する者を喪うことが嫌なのであって、「生きて欲しい」が望みであり、無理な答えを設定しているので満たされることはないのです。どちらの道でも何らかの後悔は多かれ少なかれ残るものなのです。
引用: 横田晴正著「ありがとう。また逢えるよね。 ペットロス 心の相談室 増補改訂版」第5刷 第3章 それぞれのペットロス P.112
「ペットのお坊さん」として、たくさんの飼い主さんとのやり取りから得られたお言葉なのだと思いますが、まさにそうなのだと思っています。
「療法食にこだわり過ぎた」「療法食をもっと早く食べさせていれば」とか、「もっと早くから投薬を始めていれば」「嫌がる薬を飲ませなければ良かった」とか、「家で看取ってあげたかった」「病院に行っていれば苦しまなかったのではないか」とか…今でも自分のなかでくすぶっている感情ですが、自分の中で収斂しつつある結論が書かれていて、気持ちがラクになりました。
そして本の中では、仏となったペットがそんな飼い主をどのように見ているか…も書かれています。これには結構救われます!
BeatlesのLet it beは仏教と通ずる?
この本を読んでると、頭の中にBeatlesのLet it beがエンドレスでリフレインしてました…
「なすがままに」とか「あるがままに」とか「そのままで」…居なくなったことを悲しんだり、あれこれ後悔したり、嘆いたり…それも前に進むための大切な時間だと今になっては思います。
でもどれだけそうしていたって時間は戻りませんし、愛猫も帰ってこないわけで。
ペットたちはあなたを悲しませるために、また苦しませるために亡くなったわけではなく、あなたと一緒にいることが幸せであったから、命の尽きる時まで側にいてくれたのです。
ですから、先だったペットたちに贈る言葉としては、”ごめんね”よりも”ありがとう”の方がお似合いです。
ペットたちもあなたに”ありがとう”と言っているはずですよ。
引用: 横田晴正著「ありがとう。また逢えるよね。 ペットロス 心の相談室 増補改訂版」第5刷 まえがき P.5
この本を読んでいると、身内の法事のあとにお坊さんがかけて下さっているような言葉がたくさんあります。
修行僧時代、猫の供養を先輩が「猫じゃお布施ないだろ」と言って断ったとか、ちょいちょい生臭い話も小話もあって生生しいです…
ペットを看取って直後だと文字もあまり頭に入ってこないかもしれません。事前に予習しておくか、少し落ち着いてから読まれるのが良いかと。心が少し穏やかになります
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