命あるものとはいつか別れが来る
愛猫だけでなく、愛犬や愛鳥、その他ペット…そもそも愛玩動物だけでなく家族や友人だって生命のあるかぎり、いつかその生命の終わる時にはお別れがやってきます。自分が先か、相手が先かの問題で…。
眠るように息を引き取る大往生もあれば、事故で突然亡くなることもあります。そしてやっかいなのが慢性病との闘病です…慢性病の末期になると毎日がこちら側に居るのかあっち側に逝ってしまったのかの確認です。
慢性腎臓病の末期になると筋肉も脂肪も落ちてしまい、脱水してしまうのでカラダはペラペラに薄くなってしまいます。寝ていても革袋が落ちているような状態で呼吸をしているかを確認しないといけなくなります。
次男猫も末期では体重が最盛期の半分に…
幸いにも安楽死を経験していない
個人的には、愛猫に耐え難い痛みや苦しさが続き、それがこの先良くなる見込みが無い場合の安楽死は認められて良いと思っています。
私は獣医師ではないので医学的にはどうかはわかりませんが、病気や怪我、加齢などの原因を問わず、良くなる見込みの無い「痛み」や「苦しさ」がポイントかと。
先代の長男猫と長女猫は、亡くなる数時間前までゴハンを食べていましたし、次男猫は亡くなる前夜には自分のお気に入りの場所を自分の足で散歩していける状態でした。
いずれも慢性腎臓病を患っていましたので、将来的に病気が良くなる可能性もありませんでした。健康な頃に比べると食べられるゴハンの量は圧倒的に減っていて満足に栄養を摂れていませんでしたし、あまりの多尿で輸液をしないと体内の水分量も足りない状態でした。慢性腎臓病の尿毒素でカラダはかなりダルかったでしょうが、幸いなことに痛みはさほど感じていなかったとおもいます。
次男猫については、手足が麻痺したり、意識が混濁したり、はたまた激しい痙攣を起こしたこともありました。
こうした時に、安楽死のことを頭をよぎったこともなくはないのですが、獣医師先生からは「安楽死」の「あ」の字も出ませんでしたし、こちらから聞いたこともありませんでした。
痙攣は見ている側からすると苦しそうですが、獣医師先生が言うには痙攣している方は意識が飛んでいるので痛みや苦しさは感じていないのではないかとのこと。
三兄妹の場合、安楽死を真剣に検討しなかったのは、いずれも「痛そうにしていなかった」ことが大きいと思います。
痛そうにする愛猫には耐えられない…
闘病している愛猫の看病介護をしている飼い主の精神状態はめいっぱいです。
出来ること、してあげられることをあれこれ試して、その割に効果があることは少なく、日々痩せていき目付きが険しくなっていく愛猫の看病介護をするのはメンタルを削り取られる毎日です。
そもそも猫は自然界では縄張り争いや盛りの季節以外ではほとんど鳴きませんし、また痛いのを我慢する生き物です。「痛い」と鳴くのはよほどのこと。猫が痛い時に出す声は、飼い主ににゃーにゃーと甘える声とはまるで違うのです…
そんな時、痛さや苦しさに尋常ではない鳴き声が続くと、飼い主としてはなんとか楽にしてやりたいと考えて当然かと思います。
愛猫には逝って欲しくないと考えるのは当たり前のことですが、そうした愛猫家が安楽死を考えるのはよっぽどのことですし、それを獣医師先生に依頼するのは想像を超える苦しみだと思っています。そうした経験が無い私は幸せです…
幸いなことに、私はそうした決断を迫られたことはありません。ただ、そうした決断をした飼い主さんに第三者がそれを責めるのはなんだかなあと思ってしまいます。飼い主さんは愛猫と一緒に居たいに決まっています。それでも愛猫を痛さや苦しさから解放してあげたいと決断した飼い主さんの心情、決断をどうして尊重してあげられないのかなあ…
きっと「安楽死を選択して良かったのだろうか」という想いを終生抱えて行きていかれるのだろうと思います。なので、背景や何も知らない第三者があれこれ言わない方がよいかと。
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